僕はあまりFacebookになじめない

なんだか、ブログなんてものを書くのはずいぶんと久しぶりのように思える。

 

大学生だったころ、htmlでひっそりと鬱日記を書いて、公開していたこともあったのだが、あれは2003年ぐらいだったか。ブログではなく「日記」だった。テーブルタグでレイアウトしてたな。

「日記」のタイトルは「hori's blue」だった気がする。マイルスデイビスのKind of Blueのジャケットがかっこいいなぁと思って付けた名前だった。その内容は「鬱だー」というのを、いやったらしく書いている趣味の悪い「日記」だったのだ。

(ちなみにその前にも「ウェブ日記」を書いていて、そのタイトルは「6畳一間のデカダンス」という名前だった。。)

 

当時の読者は僕の大学の友人たちで、僕が書いたものを読んでくれて、あーだこーだ言ってくれる優しい友人が1,2人ぐらいはいた。一度は大学の教授から、お前はあんなゴミみたいな日記を書くことをすぐにやめたほうがいいといわれたこともある。

まぁ、確かにゴミみたいなことだった。むしろ、先生は読まないでほしかったし。身内でひっそりと楽しんでるようなもので僕にとっては十分だった。文章を書くという行為自体が楽しかったので、それでよかったのだと思う。

 

そして、いつごろか、その行為自体がむなしくなって、書くのをやめた。大学を卒業することになると、リアルが充実してきて、もうどうでもよくなったのかもしれない。
そして、無事に(?)就職した後、厳しい現実に、本当にまいってしまって、面白半分で「鬱だー」なんて言えないぐらい弱ってしまったのだ。

 

そんな懐かしい、甘酸っぱいインターネットの思い出は、僕にとって大事な思い出だ。もしかしたらあの時のデータが家のCD-ROMにバックアップされているのかもしれないが、たぶんもう探し出すのは無理だろう。もうそれでいいのだ。

 

あれからいつの間にか15年の月日がたった。当時、衝撃的に眼前に現れた「テロとの戦い」は、世界中に飛び火し、「文化摩擦」という言葉では表すことができない悲惨なニュースに我々は目を疑った、

当時の小泉首相による北朝鮮との首脳会談、一部の拉致被害者帰国というビッグニュース、あの当時夢見た東アジアの平和は、実現することなく、日朝関係は悪化する一方だ。

国々は少しづつ右傾化している。

アメリカの大統領は、声高々に差別主義を宣言している。

みなが自分の所属している場所を守ろうとしている。

 

インターネットの出現は、世界をより近くするはずだった。人と人の距離を小さくするはずであった。我々はもっと平和に暮らしているはずだった。

でも、実際はそうならなかった。

物理的な距離よりも、趣味や嗜好、考え方により距離が人々を離れさせ、そしてその距離はもはやいかなる測地系でも測ることはできなくなってしまった。

 

ルイ・アルチュセールという思想家は「重層的決定」という言葉をして、人間の複雑性を解釈しようとしたが、我々の社会はそのように積み重なるものではなく、更にいろいろな関係性が網目状に入り組んだものとなっている。

アラブの春といわれたSNSを利用した大規模デモがもたらした大きなうねりは果たして正しい結末を迎えるのであろうか。正しさとはなんだろうか。

我々は冷静にならなくてはいけないと思う。複雑性を複雑な形で理解する知恵を私たちはまだ持ち合わせていない。SNSというものは、我々になにを強要し、その見返りに我々はなにをもらっているのか。私はそのことに未だに戸惑っている。